「脱酸素」は嘘だらけ(D5) 杉山 大志 著

読書ノート 「脱酸素」は嘘だらけ(D5) 杉山 大志 著

第5章 脱炭素との付き合い方

毛沢東の大躍進政策

・第製鉄・製鋼運
・四害虫駆除運動
・密植・深耕運動   →死者3000万人以上

「英国の研究所GWPFのジョン・コンスタブル氏は、英国の温暖化対策も毛沢東の

大躍進政策のような状態に陥っているとして警鐘を鳴らしている。

未熟で広告尾の大量導入による

「大躍進シナリオ」は経済が破綻し失敗する。」

ーーー強靱な日本をつくるーーー

急進化した環境運動が日米欧の政治を乗っ取った→自由諸国を弱体化 中国の台頭

■したたかなエネルギー政策が必要

・「実質ゼロ」:日本の技術によって海外で削減されるCO2も含める」という意味

・LEG ,全固体電池、EV

・太陽光発電:高コスト 洋上発電 水素発電も高コストになる

・原子力 石炭火力

・日本のCO2排出量 :世界の3%

・①原子力 石炭火力②日本産業が高コスト体質にならないこと

 ③有事に対する安全保障は万全に:再生可能エネルギー LNG (貯蓄しにくい)

 に頼らないこと

・石油:中東からの輸入は不安定 中国との争奪戦

■開発途上国の石炭事業に協力すべき

欧米日 撤退 その間隙 中国

■米国は超党派で技術開発

・温暖化対策:共和党反対 しかし、技術開発だけは両党で進んでる

■脱炭素技術の日米連携

・米:バイオテクノロジー発達  

   温暖化効果ガスの大幅削減には重要な技術

 ①植物を石油 天然ガスの代替原料 プラスチック生産に利用

  現在は高価;遺伝子組み換え 編集 で安価になる可能性

 ②EU:「タクソノミー」行政が環境によいか判断する傾向

 ③日本:EUの影響→ あらゆる技術開発と普及に努めるべし

           アンチテクノロジー克服すべし

ーーー温暖化対策の二つのシナリオーーー

■大躍進シナリオ

・毛沢東の政策:大躍進運動

 失敗:①科学、経済、技術無視 ②排他的思想統制 ③計画経済 

・温暖化対策も同じ:再生可能エネルで代替 電力価格高騰 

 規制 税 補助金で実現しようとしているが、経済の破綻は確実

・どの技術を使うか、政府が決定:破綻必至

■上げ潮シナリオ

・手頃な削減技術を生み出す→世界に普及

・CO2削減が進展しない理由:高すぎる

・LED,全固体電池 ペロブスカイト太陽電池

・イノベーティブな経済→市場の力、裾野の広い製造業基盤

・政府:基礎技術 実証試験

・規制 補助金ばらまき

■政府がすべきこと すべきで無いこと

・経済とイノベーションの好循環を妨げないこと

・余計なことしないこと:再エネ全量買取制度(FIT)→産業を弱めた

・イノベーションを最大限活用する制度改革をする

・技術の普及を図ること。

ーーー日本企業のイノベーションのためにーーー

■革新的循環イノベーション戦略とは

・令和2年 統合イノベーション戦略推進会議決定

・日本の強み①裾野の広い製造業基盤(他国はまねできない)

 ②世界に通用する技術

「何でも自前で技術開発や製造ができる」国は少ない

・精密加工 複雑な製造工程

・経済複雑性指数 世界1

■日本の強みはここにある

①部品 材料

②加工技術

③計測機器

④計算技術

■世界に日本の技術を広めればよい

■炭素税はイノベーションに有害である

・CO2比例の税にならない:政治的調整として減免がさけられない

             電気には高い炭租税が課される

             電気へのシフトを拒む

・エレクトロニクス産業はエネルギー多消費産業だ

・ITC(情報通信技術)産業も同じ

・新興国の電気代よりさらに高くなる(ガラパゴス化)

・家電産業は中国、韓国に負けてしまった。

■サプライチェーンに生き残る方法

コラム

九州初の製品を世界に送るために

おわりに~人類は精神も家畜化したか

色濃く漂つてきた民主主義の後退と独裁国家の伸長。私たちはそれを
「恐れるべき傾向」ととらえているが、民主主義の推進のためには
人類自身の資質が求められる。

だが歴史を見れば、自らを「家畜化」することで独裁に従う姿勢を進んで
示してきたこともあつたのだ。果たして、人類に民主主義を担い続けてゆく
資質はあるのだろうか。

■人類は本当に″進化″しているのか?

古来、人々に自由で独立した思考と精神が無いことを嘆く思想家は多かつた。

だがそれは、人類の生得的な性質なのかもしれない。
人類は多くの動物を家畜化してきた。
ヒツジ、ヤギ、ウシ、ウマ、ィヌ、ネコなどである。
この課程では共通の現象がいくつも見られた。
外見は丸くてぶよぶよになり、体毛も体色し薄くなり、
プチ模様などになつた。
進化の過程で、外敵や厳しい気候から身を守る厚い皮革や色素は
無用なものとなり、脱ぎ捨てられたのだ。
この過程は「家畜化」と呼ばれる。

人類は自分自身も家畜化したことは、よく指摘されるようになつた。
外見はやはり丸くてぶょぶよになり、体毛はなくなり、色も薄くなつた。
このことは「自己家畜化」と呼ばれている。                                ‐‐
のみならず、家畜化の過程は、外見だけでなく、人間の内面も変えたはずだ。
人類の精神はどのように変化したのだろうか。

よく言われる仮説としては、人間は相互に協力することを覚えた。
それによつて、生産性を高め、大いに栄えた、というものである。
複雑な相互協力を確立する過程で人類の脳は大きくなつた、
というのは社会脳仮説と呼ばれている。
ただここには、人間の善性を無批判に肯定しようという
ポリテイカル・コレクトな価値観が入り込んでしまっているのではないか。

人類が本来は自由意志をもった個人からなり、その自発的な協同によつて
繁栄したというのは、今の民主主義を肯定する上では大変に便利な仮説である。
人類に生得的にそのような性向があるとすれば、民主主義の社会は安定的であろう。
しかしながら、自己家畜化が、他の動物と同様な形で人類の精神に及んだ
可能性もあるのではないか。  

家畜化の過程で、動物は性格が従順になった。ヒツジは臆病になった。
ウマは鞭うたれて走るようになった。イヌは人にしつぼを振るようになつた。
だとすれば、人間も家畜のごとく扱われるようになって、
家畜のような性格になったのではないか。ならば、人々の大半を家畜のごとく
扱う社会というものも、これまた安定的なのかもしれない。

■人類を家畜のように扱った歴史

人類を家畜のごとく扱う社会というのは珍しくない。
古代から中世の王朝では、奴隷は必ず存在した。王様以外は全員奴隷
という王朝もあった。戦争で負けた方は奴隷にされるというのも普通だった。
奴隷は身分として何世代にもわたり固定化することもあった。身分制度の中には、
ある民族が上位階級となり、他の民族が下位階級となるものが多くあった。
インド、中国、朝鮮半島などではそのような制度が延々と続いてきた。
このときの王や上位階級の、奴隷や下位階級に対する仕打ちゃ、
その精神的な態度は、家畜に対するものとあまり変わらなかつたことも多かつた。
下位階級に属していれば、自我が強かつたり、反抗的であれば、殺される。
すると残ってゆく子孫は、従順に、卑屈になつてゆく。だとしたら、
これはヒッジゃウマの進化の過程とまつたく同じである。
逆に上位階級に属していたら、容赦なく下位階級を支配し続けることが
繁栄のための条件になるから、他人の痛みなどいちいち感じることがない、
あるいはそれに快楽を覚えるような、おぞましい性格に進化しても不思議はない。
人類は敵であれば残忍に殺したり奴隷化したりすることに躊躇しないことが
多々ぁった。ならば、その矛先が下位階級に向かったとしても何ら不思議はない。
そうすると、世界は横暴な独裁者と臆病な隷属者から構成されることになり、
上位階級ではサディズム的な性格が、下位階級ではマゾヒズム的な性格が、
下位階級ではマゾヒズム的な性格が形成されてゆくことになる。
さて、民主主義の思想家は、人々が自由を放棄して、
奴隷に走る傾向があることを指摘して嘆いてきた。

家畜化の過程で、動物は性格が従順になった。ヒツジは臆病になった。
ウマは鞭うたれて走るようになった。イヌは人にしっぽを振るようになった。
だとすれば、人間も家畜のごとく扱われるようになって、
家畜のような性格になったのではないか。ならば、人々の大半を
家畜のごとく扱う社会というものも、これまた安定的なのかもしれない。

このことは、人が権力や金の誘惑に弱く、自由で独立した思考を
放棄しているものだとして道徳的に非難されてきた。
だがここでの思想家の暗黙の前提は、人類とは元来自由を好む「はず」だということで、
これは民主主義の暗黙の前提でもあるが、ここには科学的な根拠は何らなかった。
もしも多くの人々が、生得的に臆病で、日々の安寧だけを願い、
権力と金に従順であるとするならば、つまりは人類が家畜のごとく
進化したとするならば、それは実際に、人類の大半が家畜同然に扱われることで
起きたのではないか。とくに、固定化した身分制度のもとで、
何世代にもわたって家畜同然に扱われた人々には、その性格の家畜化が
起きていても生物学的には不思議がない。

■「自由」と「隷属」どちらが人間の本性なのか

以上のように、独裁者や奴隷として進化した人類がいた一方で、
自由で独立した個人が存在し、互いに協力するような社会の担い手として
進化した人類もいたであろう。というのは、そのような社会も、
近代を待たずとも、石器時代以来、世界の至る所に存在し続けてきたからだ。

では人類は生得的にどちらなのか。独裁者と奴隷なのか、
自由で平等な市民なのだろうか。正解は、両方の性質を兼ね備えている、
ということであろう。

日本人の多くは大陸の征服者であった遊牧民族の遺伝子と、
征服された農耕民の遺伝子を持つている。他方で、日本人の別の祖先である
縄文時代の狩猟採集民はもつと平等だつたかもしれない。
なお、かつては狩猟採集社会では人々は平等で、生産物の余剰を
蓄えることができるようになつた農耕社会では階級が発生したとする
見解があつたが、今ではそれほど単純ではないことが分かっている。
例えばサルの社会でも階級は存在し政治闘争がある。
さて人類の本性は善か悪か、ということは、孟子・荀子の論争以来、
哲学者の好みの話題であつた。

現代になると、このテーマが進化論的に、科学的に分析されるようになつた。

例えばスティーブン・ピンカーは、暴力が歴史的に減少したのは、
人間の生得的な善が生得的な悪に打ち勝ちてきたためだ、とした。
では人類は、民主主義を担えるのか。
人類は、生得的に「自由で平等な市民」であるという、民主主義にとつて
望ましい資質を持っている一方で、「邪悪な独裁者と臆病な奴隷」であるという、
おぞましい資質も併せ持っている。


われわれのなすべきことは、望ましい資質を伸ばし、
おぞましい資質を抑制するよう、教育、文化、制度を整えてゆくことだ。
民主主義は、常に前進すべく漕ぎ続けなければならない。
油断をすると、我々の内なる悪魔が頭をもたげ、独裁と隷属の時代が来るかも
しれないからだ。

2021年5月 杉山 大志

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